今回の「岐阜の職人」は、 淡墨桜を守る"職人"樹木医の浅野明浩先生をご紹介します。
あいにくの雨の中でしたが、先生との待ち合わせの淡墨桜の下へ。 今は新緑の時期。淡墨桜は今、小さなさくらんぼをつける時期だそう。まだ、とても小さく、緑色をしています。 (浅野先生提供の画像、先生が指をさしてくれていますが、わかりますか???)
こんなに大きな樹でも、神経を使うのは一本一本の小さな枝先なのだそう。 土の中に広がる木の根の状態は、この枝先を見れば分るとのこと「見えないところを木が教えてくれるんです。」 枝先が赤くなっていたら要注意、先生曰く「木のチアノーゼ状態」なのだそうです。健康状態もチェックできるんですね。
今年の冬の大雪にはたいへん神経を使ったそうです。1日たりとも雪下ろしを休めない。 例年は3回までの雪下ろしは市の予算が当てられているのですが、今年は公式でも9回(実際は10回だそうですが)の雪下ろしが必要で「3年分の予算を 使っちゃったよ・・・。」と嘆いておられました。
毎年「雪吊り」という支柱を立てて、荒縄で枝を吊る作業があります。1本の支柱に約20本の縄で枝が折れないように支えるのですが、この縄はビニールや 鉄の縄は絶対に使いません。雪が積もり「もうこれ以上重いと枝が折れてしまう。。。」となった時には「荒縄が切れる」ことによって逆に枝が折れるのを防い でくれます。丈夫なビニールだとかえって木を傷めてしまうのです。その、張りの強さを調節するのがまた難しいのだそうです。 支柱は全部で9本、これに20本の縄・・・、200本近くの縄を吊らなければなりません。 天然記念物の枝を折ることは許されません、神経を集中した作業が求められます。 そんな時役に立つのが、先生の考案されたクレーン移動BOX。 円錐形を逆にしたゴンドラをクレーンで吊って、枝の上からゆっくり降ろす装置です。円錐形の絞られた形は入り込んだ枝を見事にかき分けて目的の枝までた どり着くことができます。しかも、枝を折ること無く作業ができる代物。 今では全国の雪吊り作業で応用されているそうです。
太い幹からは、地上部から枝のようなものが地面へ伸びています。 これは枝ではなく実は「根」。 『不定根』というそうで、大きな樹木からは必ず出ている根で、幹の周りが朽ちてくるとそれを栄養にして新しい根が出てきます。自力で再生の道を探っているんですね。 この「不定根」をうまく地面に着地させ「定根」にすることで大きな木を支え、また栄養を吸収させることができます。大正時代に割れてしまった幹の中からも不定根が生えていて、竹筒を通して着地させています。 これも、竹筒でなくてはダメでプラスティックなどの筒では乾燥を防ぐことが出来ず根が枯れてしまったり、根が木化した後で筒を順番に崩していくことができないそうです。 必要が無くなった後には自然に帰すことができる素材を選んでいるのです。
不定根は最初エンピツほどの太さですが、1年で1.5mも伸びて行き4・5年後には数センチの太さにまで成長します。そんな細やかな面倒を見続けることで「淡墨桜」は、毎年見事な花を咲かせることができるのです。
幹の中にできた「不定根」を守る竹筒(矢印) 画像提供:浅野明浩先生
全国にある樹齢200年以上の樹木が、生き永らえることができるための最重要条件。 それは、「地下水脈の存在」。
常に新鮮な水が、その木の下に流れていること。 「これをおいて存続の道は無い。」と浅野先生は言われます。
部分だけを見て「保存しろ」と良くいわれるが、その地下水が淀みなく流れる道をどんどん無くしてしまっては元も子もないのだとか。 地面を固める、歩き易い、見栄えが良い、などの理由でコンクリートやアスファルトを敷くと樹木のある所への水の流れがなくなる、下水道や用水路などで地 面を掘り起こし埋設すると水が滞るので濁る。これでは、木が生きたくてもわざわざ住み難くしているのと同じ。
なぜその木がそこに植えられたのか、そこには先人達の知恵と経験が息づいている証拠なのです。環境問題が取りざたされる今日、人間だけではなく木にも同じことが言えるんですよ、と教えていただきました。とても大切なことを学んだ気がします。 今後の浅野先生のご活躍を祈りつつ、また来年も素晴らしい開花を観られるように願いならがら新緑の淡墨桜をあとにしました。
画像提供:浅野明浩先生
『淡墨桜』
今を去ること1500余年前、応神天皇5世の孫彦主人王の孫男「大迹王」が皇位継承をめぐり、後の雄略天皇(21代)の迫害を受けた。 生後僅か50日で、養育係の草平・兼平夫婦に護られ、難をさけていた尾張一宮からさらに美濃の山奥に隠れ住んみました。 この、「住んだ」という言葉がポイントになります。
隠居生活は言語に尽くしがたいものでした。そして29歳の時、やっと都から勅使が迎えに来られ、王は都に上がられ、継体天皇(26代)として即位されました。 村を離れられる際、住民との別れを惜しまれ尾張一宮から持ち帰られた桜を二男の桧隅高田王の産屋跡に植えられ、一首の歌を添え記念とさましれた。
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『 身の代と残す桜は薄住みよ
千代に其の名を栄盛へ止むる 』
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29歳でこの地を離れるにあたって「薄住み」(短い期間)と例えられました。
「なぜ、そう思われたのでしょう?」
淡墨桜という名の桜が、福井県の今立町というところにもあります。皇子の頃に住まいを持っていたとされる粟田部地区にある花筐公園の園内には約1000本のソメイヨシノがあり、桜の名所になっています。 この桜にも、先の継体天皇伝説が残っていて、継体天皇との悲恋伝説のある狭山姫ゆかりの狭山姫公園があります。
根尾と福井の行き来はその頃から既にあったので、王と姫が出合っていたとしても不思議はないですね。太古のロマンスがそこにあったのかも。
根尾と今立は姉妹都市提携によって文化交流がなされているとのこと、「淡墨提携だね。」とは浅野先生の弁。
また、郷社春日神社伝説というものもあります。
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雨に煙る山間に佇む淡墨桜も風情があります。
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こんなコブができるのにも100年単位の時間が。
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休日にはおおぜいの観光客で賑わう公園の山裾にある「淡墨観音」も平日はひっそりと・・・。 |
所在地 |
岐阜県本巣郡根尾村板所字上段 |
老樹普通呼称 |
根尾谷淡墨ザクラ (ねおだに うすずみざくら) |
品種 |
彼岸桜(和名ウバヒガン) |
樹齢 |
約1,500年 |
指定 |
大正11年10月12日内務省天然記念物指定 (指定の事由) 由緒ある桜の代表的巨樹 |
時折覗かせる優しい笑顔にお人柄にの良さを垣間見ます。
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